【 其の一 】
天下の台所・大坂の中心
”天満”
古くから天下の台所として栄えていた大坂。なかでも大川沿いに面し水運の便が良かった天満市場は青物市場として栄え、天満宮への参拝者たちでにぎわいました。
そんな中、日持ちがする乾物を扱う店も増え、乾物を専門に扱う店がたくさん現れました。そんな乾物商たちが天満市場の西側、菅原町に店を構えたと言われています。
大川が育んだ天満青物市場
古来より文化の発達する場所には、必ず大きな川があり、天満青物市場も同じく“大川”の存在が影響しました。道路が未発達のこの時代、交通はほとんどが船。大川を利用して近江、山城、紀伊、和泉、河内、摂津などから多くの生鮮食品が早朝から運び込まれ、活気が満ちあふれます。時は承応2年(1653) 7月30日。「天下の台所」と呼ばれる由縁の始まりとなりました。
まちが人をつくり人が時代をつくる
河材瑞賢が西回り航路を開き、北前船が北海道から昆布を天満に運び込むようになった寛文6年(1672) 。昆布だしを使う「大阪の味」が生まれはじめました。問屋は、幕府から特権を与えられ、最盛期には全国の物産の7割が天満を核として集散し、「浪華第一の市場なり」といわれたほどです。こうした商人のまちとしても栄えた大坂ですが、もう一つ「文化人の顔」も持ち合わせていました。当時を代表する「井原西鶴」「近松門左衛門」をはじめ、学者・小説家・劇作家・台本作家などを輩出・支援しています。
またこの地の友人のもとへ訪れた松尾芭蕉は、そのあまりの連日の活気にいやになったと手紙に残したといわれ、人々の活気と文化の発達をうかがいしれます。
【 其の二 】
北村商店のはじまりと発展
江戸時代
大阪乾物商誌によれば、宝暦2年(1752年)久宝寺屋伝兵衛が大阪市東区石町附近で乾物仲買、久宝寺屋を営んだのが始まりだと伝えられています。
以後、江戸時代末期まで乾物問屋として営業し、久宝寺屋彌助(のちの北村彌助)がつばめ丸という千石船を日本各地に廻漕し物産を収集したそうです。
明治時代
明治になり、久宝寺屋は三つに分かれ、その一つを市丸久として北村芳三郎が明治21年(1888年)菅原町にて分家創業したのが、現在の北村商店です。
大阪市西天満にある大阪天満宮鉾流斎場(天満警察署向かい)に、当時の乾物商たちが資金を出し合い鳥居、石段、石燈籠を整備し奉納したとされています。そのため石燈籠には北村彌助、北村芳三郎の名前が刻まれています。
大正・昭和初期
昭和6年(1931年)合名会社、昭和26年(1951年)には株式会社になりました。
第2次大戦以後、芳三郎長男の北村市太郎はアメリカ留学を経て、食品業界の将来に思いをはせ、国内はもとより食品の輸出入に力を注ぎ、特にゴマの輸入に力を入れ全国胡麻加工業協同組合の設立に参画し、永年その理事長を務めました。
その後、市太郎の長男である北村弘一が、ゴマ加工場(現在の平野工場)を建設しゴマ製品の普及に努めました。さらには寒天を輸出するなど貿易にも力を注ぎ、海藻類や農産乾物を中心に海外から輸入するなど事業を拡大しました。
【 其の三 】
北村商店と蔵
明治22年、市丸久として分家創業したときにはすでに弊社の蔵として使用されていました。現在は埋め立てられてしまいましたが、当時は大川へと流れこむ天満堀川が流れ蔵のすぐ横が船着き場となっており、全国各地から船で運ばれてくる食品を川から直接蔵へ運び入れるのに便利な構造になっていました。
第二次大戦では東天満地区は多くが消失しましたが、西天満付近は消失を免れたため古い蔵がいくつか現存しています。また、天満堀川と大川が合流地点の堀川にかかっていた太平橋は取り壊されていますがその名残が北村商店敷地内に残されています。
【 ギャラリー 】
弊社の蔵の中でも最も古い蔵は現在でもその名残の貴重な雁木(蔵の床下に空間を持たせる構造)や川から蔵へとあがる階段状の構築物が残っています。